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7回の落城を経験した城~岐阜城〜

岐阜城は、鎌倉時代初期の1201年に鎌倉幕府の執事にして二階堂氏の祖とされる二階堂行政が、金華山の山頂に砦を築いたのが始まりとされています。

伊賀氏の変で流罪になった伊賀光宗の弟・伊賀光資により稲葉山城と名を変えられますが、1302年に隠岐流二階堂氏の二階堂行藤が没したため廃城となります。廃城となった稲葉山城は、1394年に守護土岐市の守護代・斎藤利永によって修築されますが、1525年に斎藤道三の父・長井新左衛門尉らが起こした謀反により岐阜城は初めての落城を迎えます。

1556年、織田信長との繋がりを強める斎藤道三と、その嫡男・義龍の間にの長良川の戦いが勃発し、斎藤道三に勝利した義龍が城主になります。しかし、1564年、竹中半兵衛らに西美濃三人衆の稲葉良通と安藤守就、氏家直元が呼応し、2度目の落城を迎えました。

半年の占拠の後、城は義龍の嫡男・龍興に返還されますが、1567年には織田信長によって三度目の落城を迎え、織田信長により稲葉山城は「岐阜城」と改名されます。しかし、1582年明智光秀に引き起こされた「本能寺の変」により京都で討ち死にした織田信長の嫡男・信忠の家臣・斎藤利堯が混乱に乗じて城を乗っ取りますが、織田信長の三男・信孝に攻められ四度目の落城を迎えます。

その後、清洲会議において、信長の嫡男・信忠の嫡男・三法師が後継者と決まり、後見人として織田信孝が岐阜城に入城しますが、同年12月に羽柴秀吉や丹羽長秀等に攻められ5度目の落城を迎え、信長の後継者・三法師を秀吉に引き渡します。しかし、秀吉の行動に納得出来ない信孝は滝川一益と共に賎ヶ岳の戦いに臨み、1583年4月、織田信長の次男・信雄に岐阜城を包囲され六度目の落城を迎えています。その後、信孝は信雄に切腹を命じられて果てました。

1600年8月には、三法師・織田秀信が石田三成の挙兵に呼応したため、「関ヶ原の戦い」の前哨戦のひとつとされる「岐阜城の戦い」が起こりました。城は池田輝政や福島正則に攻められ7度目の落城を迎え、その翌年に天守閣や櫓、石垣などが別の城に移築され、ついに廃城となりました。

取材・記事・編集=磯嶺裕・佐々木ひろこ・やすざえもん・ms-work(ミューズワーク)
 コンテ=磯嶺裕 線画=夢山紗也佳 塗り=ツグイワチホ

※ 各記事の情報は取材当時のものです。

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