直江兼続の猛攻に耐えた城~長谷堂城〜


1600年、関が原の西軍・石田三成とともに反徳川をかかげた越後の上杉景勝は、東軍に味方した最上義光を攻めるため、最上氏の本拠地に大軍を差し向けました。主将は名将の誉れ高い、直江兼続です。家康を公然と批判した「直江状」ことで有名です。
最上領内で快進撃を続けた兼続は、ついに長谷堂城の北にある菅沢山に本陣を構えます。長谷堂城を陥落させれば、最上の本拠地・山形城への道が開けたも同然となるからです。最上軍は勢いに乗っていた上杉軍に押されますが、その中でも志村光安は果敢に抵抗し、持ちこたえました。
上杉軍としても、最上を降伏させることが目的だったので、やがて戦は持久戦の様相となりました。そこへ、関ヶ原主戦場で徳川軍の圧勝に終わったという知らせが、最上・上杉の両陣営に届きます。形勢の悪化を見た兼続は退却を決意し、最上軍の追撃をしのいで上杉領へ引き上げました。
この慶長出羽合戦、別名「長谷堂城の戦い」は、北の関ヶ原とも言われています。東北地方において、東西の勢力が対決したのです。
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