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にゃんと?!また旅

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腹が減るか、こころが負けるか。〜小田原征伐の成東城〜

豊臣秀吉の小田原征伐は有名な話ですが、このときに落城したのが、成東八郎の成東城です。この成東城は千葉県山武市成東町にある城で、応永年間に造られたといわれています。
小田原征伐では北条側についたことで秀吉軍に攻められ、落城しました。その後は石川康通や青山忠成といった人物が城主を務めました。成東八郎の名前からも分かるようにこの地は代々成東氏が治めていたのですが、小田原征伐の時に北条につかなければ落城を免れたのかもしれません。

成東城はそれほど大きな城ではなく、津辺城などの他の城と連携して防備を固めていたと考えられます。北条氏が秀吉に挑んだ小田原城の戦いは無謀であったと批評する人も多いのですが、北条氏はかなり前から戦の準備をしていて、まるっきり勝算がないわけではなかったようです。
城の連携による強固な防備を作り上げるために、成東城などの城も早くから北条氏に目を付けられていたのかもしれません。そして、北条方として戦に参加した成東八郎は、思わぬ大軍の来襲により、成東城落城という憂き目にあってしまいました。

この小田原征伐は秀吉の楽勝だったという説が多いのですが、戦はやってみなければわかりません。北条氏は徳川家康や伊達政宗とも同盟を結んで、秀吉に備えようとしましたし、小田原一帯を大きな土木工事によって、一大要塞にしようとしていました。これに対し、最終的に秀吉は、城を囲んでの兵糧攻めを行いました。力攻めを諦めるしかなかったのかもしれません。

北条氏の兵糧はまだ尽きておらず、もっと長期に籠城戦が出来たとも伝わっています。それが真実なら、大軍で城を取り囲んでいる秀吉にとっては非常に危なかったと思われます。大軍であればあるほど、遠征地での兵糧の確保は困難であるからです。小田原征伐は、北条氏の心が折れるのが先か、秀吉軍の兵糧が尽きるのが先か、というような勝負だったのかもしれません。

こんにち、秀吉が大勝したかのように語り継がれていますが、もしかしたら勝敗が逆になっていたのかもしれません。

取材・記事・編集=磯嶺裕・佐々木ひろこ・やすざえもん・ms-work(ミューズワーク)
絵=磯嶺裕・ツグイワチホ

※ 各記事の情報は取材当時のものです。

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