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徳川家康が人質時代に学問を教わった「清見寺」

静岡市清水区にある清見寺(せいけんじ)は、奈良時代から長く続くお寺です。戦国時代、要衝の地であったことから、周辺各国の騒乱に巻き込まれ、荒れ果ててしまいました。その立て直しを図ったのが、今川義元のブレーンと言われた名僧・太原雪斎です。雪斎は臨済寺の住職でもありましたが、清見寺を妙心寺派に属させて、自らが第一世となって復興に力を入れました。

この時代、今川家の人質として駿府に留め置かれていた松平竹千代…のちの徳川家康は、雪斎を学問の師と仰ぎ、その元で学びを深めていました。その学びの場こそがこの清見寺で、大方丈には『家康公手習いの間』が今に残されています。※方丈(ほうじょう):寺院の住職が生活する建物。

三畳ほどの小さな部屋には、当時からのものと伝わる欄間や柱、床、違い棚などがあり、子ども時代の徳川家康が人質の境遇にありながらも、真摯に学問に向き合う姿を想像することができます。

※「家康公手習いの間」は、静岡市葵区大岩町の臨済寺にもあります。

今川家を文武両面から支えていた名僧・雪斎からの教えを受けたことは、のちに徳川家康が天下人への道をまい進するための大きな素地となっており、その点において清見寺は、天下人を育てた寺と言うことができます。後年、晴れて天下を手中に収め、大御所として駿府に居を移した家康は、たびたび清見寺を訪れて、当時の住職大輝和尚と親しく交流したと伝わります。

 

国の名勝となっている大方丈の裏にある庭園が作られる際には家康自ら作庭に携わり、駿府城から虎石、亀石、牛石を移したとも伝えられ、家康手植えの柏樹も残されています。大方丈の前庭には臥龍梅と呼ばれる梅が育っており、人質当時の家康が庭の片隅に接木したものと言われています。

大業をなしとげた家康が、自身を育んでくれた母校に感謝を捧げ、晩年の豊かなひとときを過ごした場所と考えることもできます。

取材・記事・編集=磯嶺裕・佐々木ひろこ・やすざえもん・ms-work(ミューズワーク)
 コンテ=磯嶺裕 線画=かねこ 塗り=夢山紗也佳

※ 各記事の情報は取材当時のものです。

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